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東京地方裁判所 昭和62年(行ウ)69号 判決 1991年7月16日

原告

沖山雍子

右訴訟代理人弁護士

渡部照子

羽鳥徹夫

被告

中央労働基準監督署長

小屋敷光

右指定代理人

浅野晴美

外四名

主文

一  被告が昭和五七年一一月一〇日付けでした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文同旨

第二事案の概要

一争いのない事実

1  (当事者等)

原告は、亡沖山賢一(昭和一一年四月一五日生、昭和五七年四月一三日死亡)の妻で、同人の死亡当時、その収入で生計を維持していた。また、沖山賢一との間には、沖山賢一の収入によって生計を維持していた長男文教(昭和四五年三月一〇日生)、二男邦彰(昭和四六年九月七日生)、三男賢吾(昭和五二年九月五日生)の三子があった。

沖山賢一は、原告との婚姻当時から、神奈川県川崎市に居住していたが、昭和五一年三月になって、出身地である八丈島に帰島し、同島において、平素は大工として一般家屋の修理、木製の家具や船舶用品の製作、修理などをし、また、自家用の畑作農業を行って、ほぼ規則正しい生活をしていた。

2  (八丈島の漁業)

八丈島は漁業の島である。同島の漁業の一年は、毎年二月ころから五月ころまでが、マグロ、カツオを主体とする曳縄一本釣漁業、トビウオを主体とする流し網漁業の春漁の時期、七月末ころから八月末ころまでが、天草、とこぶしを中心とする夏漁の時期、同月末ころから一二月ころまでが、ぼうけ網漁業や底魚一本釣漁業の秋漁の時期であり、その後、冬場には休業して、船体の整備補修等が行われるというように季節的特色がある。これらの中で、漁師にとって最も忙しく、稼ぎ高も多いのが春漁の時期である。八丈島のマグロ、カツオ漁は、魚体を傷つけない漁法であることから、全国的に有名であり、高級料亭等の需要に応ずるものとして一尾当たりの取引額も高額で、とくに、二、三月に獲れるクロマグロは一本当たり数百万円にもなることがある。小型船の船主は、春漁の時期にその年間の稼ぎ高の七、八割を稼ぐのが通常であるから、その時期は文字どおり必死になって人を集め、一本でも多くの魚を獲ろうとするのが常である。

3  (沖山賢一の漁船への乗船)

沖山賢一は、昭和五四年二月ころから、カツオ、マグロ漁の最盛期である二月ころから五月ころまでの間に限って、漁船に乗船し、疑似針をつけた縄を投縄して船を航行させて回遊性の魚を釣る漁法である曳縄一本釣漁法でカツオ、マグロを漁獲する漁夫の業務に従事していた。

当時沖山賢一が乗船していたのは、船主土屋友延の友丸であり、同船の大きさは、総トン数13.78トン、長さ13.57メートル、幅3.70メートル、深さ1.20メートルであった。

4  (沖山賢一の昭和五七年の乗船)

昭和五七年には、沖山賢一は、第三大祐丸の船主小宮山英春に依頼され、一月一六日から後記のとおり死亡するまで、同船に乗船して曳縄一本釣漁法によるカツオ・マグロ漁に出漁し、漁獲の準備作業、取り込み作業、肉眼による魚群探索、水揚げ等の作業に従事していた。なお、その間、同年三月九日、沖山賢一は、第三大祐丸で曳縄漁に就労中、右手示指及び環指を受傷した。

第三大祐丸は、三根漁業協同組合に所属する総トン数僅か4.99トン、長さ11.33メートル、幅2.50メートル、深さ0.76メートルの小型船であった。

5  (沖山賢一の死亡)

同年四月一一日、沖山賢一は、午前三月ころ起床し、午前三時四〇分ころ自宅を出て八丈島内の神湊港に向かい、小宮山英春及び大嶋栄二とともに三人で第三大祐丸に乗り組み、午前四時ころ、同港を出港した。

出港後、沖山賢一は、船首で魚群探索の業務に就いた。

第三大祐丸は、同日午前六時三〇分ころ拓南山漁場に到着した。しかし、沖山賢一は、そこでは遂に魚群を発見できず、午前一〇時ころ新黒瀬漁場に移動し、間もなく魚群探索を小宮山英春と交替し、船尾に戻り、大嶋栄二と並ぶような形で操舵室入り口の台に腰をかけた直後、午前一〇時三〇分ころ、第三大祐丸は突然カツオの群れに突入した。小宮山英春が「食ったぞ」と大声をかけ、大嶋栄二が直ちに左舷船尾の漁具に向かい、沖山賢一も、続いて立ち上がって右舷船尾末端の漁具に向かおうとしたが、そのままよろけるように前のめりに倒れ、意識を失った。第三大祐丸は、直ちに揚縄して前記神湊港に向かい、午前一一時四五分ころ同港に帰港し、沖山賢一は、救急車で同日午後零時一〇分ころ八丈町八丈病院に収容され治療を受けたものの、二日後の同月一三日午後三時四七分ころ、同病院で高血圧性脳出血(以下、「本件疾病」という。)により死亡した。

6  (本件処分)

原告は、沖山賢一の死亡が労働基準法施行規則別表第一の二第九号(業務に起因することの明らかな疾病)に該当する業務上の事由による死亡であるとして、被告に対し、昭和五七年五月一〇日、労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の支給を請求したところ、被告は、沖山賢一の死亡は業務上の事由に基づくものとは認められないとして、昭和五七年一一月五日、遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分(以下、「本件処分」という。)をし、同月一〇日付で原告にその旨通知した。

7  (審査請求等)

原告は、本件処分を不服として、東京労働者災害補償保険審査官に対し、同年一二月九日、審査請求をしたところ、同審査官が、昭和五九年六月一八日付で右審査請求を棄却したため、さらに、労働保険審査会に対し、同年八月一三日、再審査請求をしたが、同審査会は、昭和六二年三月一三日付で右再審査請求を棄却する旨の裁決をした。

二争点

本件の中心的争点は、業務起因性すなわち沖山賢一が就いていた業務と本件疾病の発症との相当因果関係の存否であり、それに関わる事実経過等について、原被告はそれぞれ次のように主張する。

1  原告の主張

(一) (事実経過について)

(1) 沖山賢一は、昭和五一年当時、川崎市で大工をしていたが、母親がヘルニアで歩行困難になったため、その看病等のため、八丈島に帰島した。帰島後も大工をしたが、島民は、簡単な大工仕事は自分でしてしまうため、沖山賢一は玄人でなければできない仕事をしていた。

大工として稼働している時期の同人の生活は、月に二七、八日間就業し、毎日、午後九時か午後一〇時ころには就寝し、午前七時ころ起床して朝食後、午前八時ころから仕事に就き、昼食は狭い島内のこととて一旦帰宅して済ませ、その後、仕事場に戻って午後六時ころには帰宅するという規則正しいものであった。そして、休日には、小さな畑で、摘み菜や春菊など手のかからない自家用の野菜を作っていた。

(2) これに対して、漁船に乗船した場合の労働は長時間の重労働である。第三大祐丸に乗船するようになった昭和五七年における沖山賢一の生活は、早朝起床すると、午前四時には太平洋の荒海に乗り出し、日が昇るときには漁場に到着し、日没まで漁をした。帰港が午後七時ないし午後八時となることも稀ではなかった。帰港後水揚げ等の作業をし、これを終えた後帰宅していた。

曳縄一本釣漁法は、出漁時から入港時まで連続操業されるものであるから、その労働時間は、一日一九時間ないし二〇時間にも及ぶ。食事をする間もないときもあった。そして、疲れきって帰宅後、遅い食事を済ませて就寝し、翌朝早く起床するので、睡眠時間はそれまでよりかなり短くなった。長時間の重労働に従事しながら、睡眠、休養の時間は著しく減少し、その肉体的、精神的疲労は極度に高まっていた。

(3) 第三大祐丸に乗船するようになった昭和五七年一月一六日まで、沖山賢一は、八丈島の飛行場拡張工事に伴う民家の取り壊しや家屋移転等の大工仕事に従事し、その後、休む間もなく、第三大祐丸船主小宮山英春の依頼により、同船に乗船した。

第三大祐丸は、友丸と比較してもかなり小型の船である。船の大きさのいかんは、波浪による横縦の揺れの程度、波しぶきのかかり方、船上の広さなどの違いとなって表れる。友丸の方が波浪に対して遙かに強く、したがって、揺れも少なく、波しぶきもかかりにくく、また、船上も広いため、作業がやり易かったことは当然である。さらに、第三大祐丸のような小型船には休息のための設備もない。

沖山賢一は、そもそも本職の漁師ではなく、にわか漁師である。同人の賃金がベテラン漁師の三分の二の一日四〇〇〇円であったことは、同人の漁師としての経験に対する評価を雄弁に表している。しかも同人は、前年までより小さな船での慣れない作業に従事していたのである。

(4) 漁業においては、潮流の流路が変わると漁場を変えなければならない。昭和五八年以降、冷水塊が同島付近に張り出してきたため、漁場も変わり、水揚げ高も大幅に減少しているが、それまでは、八丈島の小型船の漁場は同島の比較的近場であった。当時、毎年二、三月は、八丈島から五、六マイル付近が主力の漁場で、水温いかんで同島の南方約三〇マイル付近の漁場に向かう。四、五月には、潮の移動に伴い、同島の東方又は北方二〇ないし五〇マイル付近を漁場とする。第三大祐丸が所属する八丈島の三根漁業協同組合の水揚げ高は、本件のあった昭和五七年が、過去、現在を通じて最高額を記録している。

沖山賢一が乗船した第三大祐丸は、船主の技術、力量から、三根漁業協同組合所属の総トン数五トン未満の小型船の中でも特段に水揚げ高が多く、同船での労働は、量の点でも内容の点でも他船での労働に比して過重であった。

(5) 昭和五七年三月九日午前、八丈島東方八マイル付近で操業中の第三大祐丸の曳縄に、突如、クロマグロが同時に四、五本かかった。一人が先手、一人が尻手となって、声を掛け合いながら、長さ約二メートル、直径約一メートルの暴れまわる魚体を一本ずつ船に引き寄せ、引き上げ、しめる作業が行われる。このときは、約一時間かけて、やっと一本を引き上げた。もちろん昼食抜きでの作業であった。そして、同日午後四時三〇分ころ、再びクロマグロがかかった。沖山賢一は、渾身の力を込めてクロマグロを捕る作業中、テグスを右手に絡ませ、右手示指と環指を切断されかかる事故にあった。このような受傷にもかかわらず、沖山賢一は、小宮山英春と力を合わせてこの日二本目のクロマグロを獲った。二本目のクロマグロは船に揚げることができず、船に繋いで帰港した。当日のクロマグロは、一七七キログラム、一八八キログラムで、金額にして計二一八万九三八七円であった。漁民にとって、この春漁の時期が年間の稼ぎの中心であり、とくにクロマグロの漁獲がいかに貴重であるかは、右の金額をもって十分に知り得る。

沖山賢一は、この受傷により、右手示指を三針縫った。本来は、傷口が閉じるまで、少なくとも一週間程度は休むべきであった。しかし、同人は、春漁の大切な時期に、休むこともできず、その後も連続して乗船した。同月一〇日には、引き上げられなかったものの、クロマグロがかかり、同月一一日はマカジキ四七キログラム一本を漁獲し、同月一二日には、マカジキが出るとの情報で出漁し、時化だした海を遅くまで操業するというように、連日就労し、その後、同月一七日からはカツオを中心とする更に長時間の漁に入り、マカジキ、カツオ、シイラ、トンボ(ビンチョウマグロ)等を漁獲するようになった。その間、沖山賢一は、就労中、包帯を外してゴム手袋をはめて、何十キログラムもの魚を相手にした力仕事をし、また、相当数の魚を引き上げては、しめるなどという作業を海上で繰り返していたのである。傷口は容易には治らなかった。

(6) 漁労は、工場や事務所での労働と異なり、風雨、気温等の天候による直接的影響下での労働であるから、天候のいかんが、全般的身体状況はもとより、血圧にも影響を及ぼす。昭和五七年四月は、一日から九日まで暖かな陽気となっていたが、同月一〇日、一気に冬型の天候となり、寒気が入って冷え込んだ。その翌日午前三時過ぎ、冷気の中を沖山賢一は起き出して仕事に出掛けたのである。

(7) 同月一一日当日、海は時化ており、僅か4.9トンの第三大祐丸は、荒波を受け、数メートルも大きく前後左右に船体を傾かせながら航行した。波しぶきを全身に浴びるため、沖山賢一らは、出港時から、合羽を来ていた。しかも、当日は、沖山賢一は、約一か月前の受傷により、右手を思うように使えない状態にあり、その業務内容からして本来は就業が無理な状態であった。しかし、船長小宮山英春の頼みを断りきれずに乗船していたのである。そして、魚群探索を自らかって出て、第三大祐丸の舳先(突台)に乗り、手網を持って身体のバランスを保ちながら、海面付近を肉眼で凝視する作業をした。船の舳先に乗ること自体、全身の緊張を強いられるものであるが、その上、魚群の探索という神経を緊張させる業務に当たったのである。沖山賢一にとっては、初めての仕事であった。それまでの疲労の蓄積した状態の上に一層過度の神経、精神、肉体の緊張状態が続いた。そして、同人は、遂に魚群を発見できないまま午前一〇時ころ、船長小宮山英春と魚群探索を交替し、一瞬の間、緊張を緩めて、操舵室入り口付近の台に腰をかけたとき、船は魚群に突入して大きく揺らいだ。沖山賢一は、その直後倒れたのである。

(8) 倒れた直後には、沖山賢一は、目を開け、意識のある状態であった。脳出血で倒れた際の処置としては、激しく動かさないことが肝要である。しかし、遙か海上で操業中であった第三大祐丸は、スピードを上げて帰港するほかはなかった。船は大揺れに揺れ、沖山賢一は、発症後、症状を一層増悪させ、同日午前一一時四分には意識がない状態になり、結局、死に至ったのである。

(二) (業務起因性について)

(1) 陸上での大工仕事から海上での漁労への仕事の変更は、沖山賢一の労働負荷を著しく高めた。一見凪いでいるといっても、小型船は、波や風によって、前後左右に大きく揺れる。まして、時化の時の労働環境の凄まじさは言語に絶する。漁労は、波しぶきを浴びながらの力の要る連続作業である。否が応にも血圧は上昇せざるを得ない。しかも、重労働にもかかわらず、労働時間は長く、睡眠時間は減少し、疲労が蓄積した。加えて、沖山賢一は、前記の傷が治らないまま漁労に従事し、同年三月一七日からはカツオ漁と、更に労働時間の長く作業量の多い業務を続けて、労働負荷を一層高めて、血圧を上昇させていったのである。

被告は、沖山賢一の指の傷は重症ではないと主張する。なるほど、その傷自体は生命に危険を及ぼす傷ではない。しかし、原告が主張しているのは、この怪我によって、同人の労働負荷が加重されたことである。暴れまわる魚を引き寄せ、引き上げ、しめる作業は、手、指、腕、肩等の激しい動的筋肉労作を要するものであることは論をまたない。そして、それが同人の精神的な負担をも増大させたのである。

被災当日、沖山賢一は、午前四時ころから午前一〇時三〇分に至るまでの約六時間三〇分にわたって、精神の緊張状態の持続を強いられ、血圧も上昇していたのであり、連日の疲労、とくに右手指に怪我をした同年三月九日以降の疲労の蓄積とあいまって、魚群にぶつかった瞬間に一層の緊張と血圧の上昇のため本件発症に至ったのである。

(2) 被告は、沖山賢一には、心臓に虚血性の変化があったと主張し、本件処分においても「完全左脚ブロック」、心筋虚血の疑いという昭和五四年一一月一日の成人病集団検診における心電図所見を根拠として業務起因性を否定している。たしかに、右検診結果には、「心筋虚血の疑い」との記載があるが、心電図欄には「CompleteRBBB」と記載されている。それは「完全右脚ブロック」の意であって、これを「完全左脚ブロック」と読むのは誤読である。医学上、「完全左脚ブロック」と「完全右脚ブロック」とは臨床的意味がまったく異なる。「完全右脚ブロック」は良性脚ブロックにすぎない。

なお、右検診結果に記載のあるのは、「高血圧」であって、「高血圧症」ではない。血圧が高いといっても、その程度は若干にすぎない。また、血圧は、その時々の被検者の身体状況によって大きく変動するものであり、僅か一度の血圧測定の結果をもって高血圧と断定すること自体にすら疑問がないわけではない。高血圧には遺伝的要素が強いとの説もあるが、沖山賢一には何らの遺伝的素因もない。

また、被告は、沖山賢一がその後、検査、治療を受けたことがないとして、同人が健康に配慮していなかったかのように主張するが、同人が検査や治療を受けなかったのは、同人に問題とするような病的症状がなかったからにほかならない。

2  被告の主張

(一) (事実経過について)

(1) 沖山賢一の職歴をみると、同人が大工仕事をしていたことは認められるけれども、だからといって、同人が不慣れな、にわか漁師であったとはいえない。同人は、昭和五四年二月ころからは、季節的とはいえ、毎年乗船して漁労に就いていたのであり、かつて漁業に従事していたことも推察される。むしろ、同人には、相当の経験を有する本職の漁師との評価が値する。

(2) 原告は、第三大祐丸が友丸より小型の船であったことから、同船での労働負荷が高かった旨主張するが、波浪による揺れの程度などは、船の形状等にもよるものであり、トン数のみによってそれほど際立った差異はないはずである。

(3) 原告は、カツオ漁の労働時間が一九ないし二〇時間になると主張するが、漁船は、午前四時ころ出港して、午後六時ころ帰港するのが一般であるから、その労働時間は一四時間程度である。また、なるほど、曳縄一本釣漁法においては、出港直後から操業体制にあり、航行中、常時魚群探索をしている状態にあるが、連続操業といっても、回遊中の魚に船が出会わなければ、漁獲作業をするわけではなく、魚群に当たって漁獲作業をする場合でも、作業自体は約二〇ないし三〇分程度で、一、二時間にも及ぶことは稀であり、魚群が去れば、また船を航行させるという繰り返しで、魚群に当たるまでの間は休憩又は待機時間となるのである。原告が主張するように、長時間連続して重労働に従事したと評価すべきものではない。

(4) 原告は、沖山賢一の睡眠、休養時間が著しく減少し、肉体的、精神的疲労が蓄積していたと主張するが、沖山賢一の死亡前の稼働状況は、昭和五七年二月は、出漁日数二〇日、休漁日数八日であり、同年三月は、出漁日数二〇日、休漁日数一一日であり、同年四月は、発症当日まで一一日間のうち、出漁日数七日、休漁日数三日であって、一か月に約一〇日の休日があり、しかも、前記のとおり、出漁した日でも船内における待機又は休憩の時間が相当あることから、休養は十分とれたはずであり、同人に肉体的、精神的疲労が蓄積していたとは考えられない。

(5) 原告は、発症当日の海の状況について、時化であると主張するが、当日の海況は、前日の時化の影響で、早朝多少波立った状態にあったものの、瀬場に着いたころには凪いでいたのであり、原告が主張するような状態ではなかった。

(6) 原告は、沖山賢一が約一か月前に受傷していたことから、本来就労が無理な状態にあったと主張するが、同人は、受傷翌日から就労を現実に続け、しかも本件発症当時は既に、右受傷から一か月以上経過していたのであるから、その負傷は、原告が主張する程の重症であったとは解し得ず、まして、発症当日の就労に影響を及ぼしたとは考えられない。

(7) 原告は、第三大祐丸の漁獲高が他船と比較して特段に多いとして、沖山賢一の労働が他船に乗船している者よりも過重であったと主張するが、本件直近の第三大祐丸の一日当たりの漁獲量は、他の同等船一艘当たりの一日平均値に比し、むしろ少なかった。

(8) 原告は、沖山賢一が当日行った魚群探索の業務は同人にとって初めての仕事であったと主張するが、同人は、平素から随時魚群探索の業務に従事していたものとみられ、当日初めてこれを行ったものではなく、当日に限って精神的負荷が存在したものとはいえない。

(9) 沖山賢一の日常生活は、概して規則正しいものであった。死亡前日も、子供達と一緒に畑でジャガイモ掘りをしていて、普段と何ら変わりがなく元気に一日を過ごし、夕食時もいつものとおり焼酎の湯割りを飲んでおり、死亡前の健康状態に異変は何もなかった。沖山賢一は、昭和五四年一一月一日、成人病(循環器)集団検診を受検しているが、その結果によると、高血圧、肥満、心電図所見が指摘され、当時から、心臓に虚血性の変化があった可能性が極めて高い。しかるに、同人は、右のような自己の健康状態を認識しながら、その後、まったく検査も治療も受けたことがなく、日常生活の上で、これら疾病に対する配慮もせず、しかも、脳出血のリスク・ファクターともいわれている飲酒、喫煙を重ねており、同人の健康管理はまったくされていなかったといわざるを得ない。

(二) (業務起因性について)

沖山賢一の直接の死因である高血圧性脳出血は、元来、労働とかかわりなく発症することの多い疾病であり、基本的には、本人に内在する素因に基づいて発症する疾病である。その原因は、一般に、脳内小動脈の壊死又はそれに起因した脳内小動脈の破裂とされている。脳内小動脈の変性には、高血圧及びそれに付随する動脈硬化が重要な役割を演じているとされている。そして、沖山賢一には、脳血管障害に対するリスク・ファクターである高血圧、心電図所見等の基礎疾病及び肥満、飲酒・喫煙習慣があった。なるほど、被告は、心電図所見につき、「完全右脚ブロック」を「完全左脚ブロック」と誤読していが、脚ブロックは加齢又は動脈硬化を原因とするもので、右か左かによって違いはない。したがって、脚ブロックの存在がある以上、業務起因性に関する判断を異にする理由はない。

他方、労働上のリスク・ファクターとしては、過重な長時間労働等が一般に指摘されているが、同人の業務内容は、漁業という特殊業務の性質から、労働時間、休憩時間、休日等が一定していないという事情は否定できないものの、月に一〇日前後は休漁し、出漁日においても休憩、待機の時間があったのであり、同人が乗船した第三大祐丸での労働内容は、僚船に比して繁忙ではなく、同人の労働負荷がとくに加重され、過大であったとはいえないばかりか、本件発症の前日には海上時化のため休漁しており、十分な休養がとれた状況にあったのであって、しかも、同人は、季節的ではあるが、四年程度の漁夫としての経験を有する上、それ以前にも漁師をしていたこともあり、当該業務に不慣れであったとはいえないのであるから、当日、出漁時に疲労が蓄積していた状態であったとは考えられない。のみならず、同人が当日担当した魚群探索も出港後一〇分程度のことであって、それが特段の精神的負荷になったものとは解し得ず、発症の時点は、魚を上げる前であるから、そのとき同人に強度の肉体的負担がかかったものともいえない。

結局、当日沖山賢一が発症した脳出血は、同人の体質的あるいは内在的素因や日常生活上の素因が競合して自然的に増進、増悪した結果、たまたま業務中に発症したものにすぎず、業務が相対的に有力な原因をなしたものとはいえない。

第三争点に対する判断

一事実経過に関し、後掲証拠によると次の事実が認められる。

1  亡沖山賢一は、昭和一一年四月一五日、八丈島に生まれ、同島内の高等学校卒業後、家業の農業に従事するとともに、仕事の合間にムロアジのぼうけ網漁等の漁船に乗って漁夫として稼働したこともあったが、昭和三四年(同人二三歳)ころには同島を離れて上京し、その後、大工となり、昭和四四年ころ原告と結婚した。原告との結婚当時、沖山賢一は、神奈川県川崎市に住んで、工務店に勤務し、木造注文住宅の建築工事等をしていたが、母親の病気のため、昭和五一年三月ころ、故郷である八丈島に帰島し、以来、同島内の工務店に勤務して、平素は、大工仕事を続けていた。

右工務店勤務の際の同人の生活は、就労日には、毎年、午前七時ころ起床して朝食後、自宅に近い右工務店に出勤し、午前八時ころから仕事に就き、昼には自宅に帰って昼食をとり、その後、仕事場に戻って仕事をして、夕刻には帰宅し、午後九時か一〇時には就寝するという規則正しいものであり、本件発症以前には特別の疾患を示唆するような顕著な自覚症状はなかった。そして、雨の降る日には屋外での作業はせず、屋内で工事に必要な木材を刻む作業を行うなどしており、休日は毎日曜日に定期的に存在し、休日には、いわゆる家庭菜園での自家用の野菜を作ったりしていた。

同島に帰ってからの同人の収入は、島の人々が簡単な大工仕事は自分でしてしまうこともあって、川崎市にいるころよりかなり少なくなった。

2  八丈島の中心的産業は漁業であるが、マダイ、アオダイ等の底魚の資源が枯渇するようになって、昭和四六、七年ころからはマグロ、カツオ等を主体とした回遊魚の漁が盛んになり、漁業の形態も変わってきている。同島においては、毎年二月ころから五月ころにかけての春漁の時期が漁業収入の集中して得られる時期であり、地元の漁業者の年間の収入の相当部分がこの時期の漁獲に負っている。春漁では、マグロ、カツオを主体とする小型船中心の曳縄一本釣漁業とトビウオを主体とする大型船による流しさし網漁業が主として行われている。

曳縄一本釣漁法とは、疑似針等の仕掛けをつけた縄(釣糸)を投縄して、これを曳きながら船を航行させて、回遊性の魚を釣る漁法である。同じく一本釣りといっても、一定の漁場にほぼ周年居ついている底魚を漁獲対象として、魚場に赴いてから探知器等で魚群を探索して停泊状態で投縄する底魚一本釣魚法の場合と異なり、回遊漁の曳縄一本釣漁法の場合には、一応一定の漁場を目指して出港するものの、いつ出会うとも知れぬ回遊漁を漁獲対象とするものであるため、出港直後から入港直前まで投縄を続けて一定の速度で航行しながら操業するのが原則であり、魚群の探索は航行中、常時、肉眼で行われている。漁獲対象となる回遊漁は、漁船より相当速く泳ぐ能力をもっているものであり、その群れの移動も早いため、これを漁獲しようとする漁船には素早い対応が必要とされる。魚群に出会った場合には、魚の群れと同じ方向に向かって船を航行させながら、疑似針にかかる魚を釣り上げ、撲殺する(俗に「しめる」という。)作業を行うことになる。そして、ときとして魚群が瞬時に去ってしまい、次に別種の魚群とあたることもあり、そのような場合には、魚の種類によって疑似針は色や大きさが異なる別種のものを使用しなければならないため、直ちに揚縄して迅速に疑似針の交換等をすることになる。

魚がかかるまでの航行中に行われる魚群探索は、船長を中心として行われ、その方法は、漁獲対象となる回遊魚が餌となる小魚の群れを追っているところなどを見つけるというのが常法である。海上に流木があれば、これに小魚が従っていることが多く、また、小魚の群れを狙っている鳥の舞い方に独特の動きがあるため、魚群探索に際しては、海上の流木や魚を狙う舞い方をしている鳥などが目当てにされるし、その他、潮流の加減や潮目など小魚の集中しそうなところを発見するのが魚群探索の仕事である。そして、これらは、漁師としての経験に基づいて肉眼で行われる。

水揚げされるカツオの大きさは、全長三〇ないし九〇センチメートル程度の場合が多く、三根漁業協同組合では、重量約六キログラム以上のものを「大」、約四キログラム以上のものを「中大」、約2.5ないし三キログラム以上のものを「中」、約一キログラム以上のものを「小」、約一キログラム未満のものを「小小」として扱っている。同様にして、同組合では、ビンチョウマグロ(俗称「トンボ」)は、七、八キログラム程度のものを「大」、六キログラム程度のものを「中」、四キログラム程度のものを「小」、2.5ないし三キログラム程度のものを「小小」と扱っている。また、水揚げされるシイラは、市場性が当時低かったため、大きさによる単価の区別がなかったが、体長六〇センチメートルから一メートル八〇センチメートルくらいのものが漁獲される。キワダ(「キハダ」ともいう。)は、いわゆる出世魚で、小さいものから順に「メジ」、「キメジ」、「キワダ」と呼ばれている。「キメジ」は、重量約一〇ないし二〇キログラム程度、体長一メートルないし一メートル五〇センチメートル弱程度のキワダである。

3  沖山賢一は、八丈島に帰島後、収入が減ったことや友人の頼みなどもあって、漁船に乗って副収入を得ることを考えていたものの、当初は、業務の危険性から原告が反対したので、乗船を控えていたが、帰島後三年たった昭和五四年の春漁の時期以来、カツオ、マグロ漁の最盛期である二月ころから五月ころまでの間に限って、船主土屋友延の友丸に乗船して、曳縄一本釣漁法でカツオ、マグロを漁獲する漁夫の業務に従事するようになった。その後、昭和五五年も同様であったが、昭和五六年に同人が漁船に乗船したかどうかは必ずしも明らかでない(原告本人は、<証拠>の記載を根拠にして本件が乗船三度目であるとし、友丸の船長に尋ねてみたところでも、二シーズン乗船してもらったが、三度目は乗船を断られたと言っていたと供述するが、本件直後である昭和五七年三月一八日に作成された原告からの事情聴取書である<証拠>には昭和五六年にも乗船して漁師の仕事をした旨の具体的記載があること、<証拠>が昭和五四年から乗船していたということは知らないけれども、本件の前年度に沖山賢一の友丸乗船の記憶があるように証言していること、証人小宮山英春も沖山賢一は本件の二年くらい前から友丸に乗船していたと証言していることに照らすと、<証拠>及び原告の前記供述によって直ちに昭和五六年には乗船しなかったと断ずることはできない。)。

4  友丸に乗船していた時期の沖山賢一の生活は、午前四時三〇分ころ起床して、午前五時ころに自宅を出て、神湊港から出漁し、帰港が午後六時ころ、遅くなると午後七時ころになるときもあり、水揚げ作業等を済ませて帰宅するのは、午後六時三〇分ないし午後八時ころで、就寝は午後一〇時ころであった。

沖山賢一が少なくとも昭和五四年、昭和五五年の両年乗船した友丸は、昭和五一年初めに進水した総トン数13.78トン、長さ13.57メートル、幅3.70メートル、深さ1.20メートルの船で、乗り組んでいる漁夫は風雨や波の飛沫を避けて休息し得る室を有していた。

昭和五四年一一月一日、沖山賢一は、成人病(循環器)集団検診を受診したが、その結果によると、身長163.1センチメートル、体重71.0キログラムで、やや太り気味であり、血圧測定の結果は収縮期血圧一五四、拡張期血圧一〇八と後者が高めであったほか、心電図所見に完全右脚ブロック(心電図に関する記載は、「CompleteRBBB」とあるが、日本語での記載部分は、脚ブロックが右脚であるのか、左脚であるのか判別しにくい記載となっていた。)、左の高電位、陰性のU波が認められ、眼底所見では、動脈硬化度〇度、高血圧Ⅰ度であり、蛋白尿・糖尿の検査結果はいずれも陰性であった。

5  沖山賢一は、昭和五七年一月、前記工務店の仕事で八丈島空港の拡張工事に伴う民家の取り壊し、建て替え工事に従事していたが、幼なじみであり、遠縁にも当たる第三大祐丸船主小宮山英春に頼まれて、同月一六日から、同船に乗船して曳縄一本釣漁法によるカツオ、マグロ漁に出漁するようになった。

小宮山英春は、昭和一八年生まれで、中学校卒業以来漁業に従事し、自分で船を持つようになってからでも本件当時既に約一三年の経験をもつ専業の漁師であり(その力量、技術の優秀さについては当事者間に争いがない。)、昭和五二年以来、第三大祐丸で春の曳縄一本釣と秋の底魚一本釣の漁業を行っている。毎年、同人が曳縄一本釣の春漁を開始するのは、一月一〇日ころであり、五月半ばまでの間、これを続けているが、同島の一般の船主同様、この時期の収入が同人の年間収入の七、八割を占めていた。第三大祐丸のカツオ、マグロ漁においても、日の出には漁場に到着し、日没まで漁をするのが原則であり、マグロを狙って出漁するときは八丈島近辺を中心として航行しているので漁労に従事する時間はカツオ漁に比べれば短く、午後六時ころには帰港していたが、カツオを狙う場合には目指す漁場が遠いため、出港は早く、時には午前一時ころに港を出るときもあり、帰港は午後一〇時を過ぎることもあり、このように帰港が遅くなった場合には、水揚げ作業等が済むのが午前零時を過ぎてしまうこともあった。また、同人は、漁獲意欲が旺盛で、同等船の中では最も出漁頻度が高い部類に属し、さらに、漁夫が港に到着しなくとも、出発の予定時刻になると出港してしまうため、同船の漁夫をしていた大嶋栄二(一応調理師という職業を有していたものの、マグロ、カツオ漁のみならず年間を通じて漁船に乗って本件当時まで約七年間漁夫の仕事をしていた。第三大祐丸には本件まで四年間乗船していた。)は遅刻して同船に乗り損なうこともあった。

第三大祐丸は、昭和五二年初めに進水したもので、船体は、総トン数僅か4.99トン、長さ11.33メートル、幅2.50メートル、深さ0.76メートルであり、通常、船長以下二、三人が乗り組んで漁労に当たる小型船である。その航行によって切った波しぶきは、船上、とくに船舷に直接かかってくる。マグロ、カツオ等の回遊魚の曳縄一本釣による漁は、海上に波浪のあるときの方が漁獲の見込みがあり、あまり凪いでいるときはかえって漁にならない。その結果、とくに豊漁の際には、夥しい波浪を蒙りながら漁労に従事することになりがちである。操舵する場所は一段高くなった操舵室であるが、その後方は開放した構造になっていて、広さもさほどなく、風雨や波しぶきから乗り組んでいる漁夫を防護する機能をもっておらず、漁夫には風雨や波しぶきから護られて休息したり仮眠したりするための特別の場所はない。操舵室後方の艫にある板一枚に腰をかけているのが、その休息の形態である。そして、航行する船上では、腰をかけていても船のピッチング、ローリングにより腰の浮くような状態が続く。

第三大祐丸における魚群探索は、原則として小宮山英春が操舵室で操船しながら行うのが中心であるが、漁夫も航行中は魚群を探しているのが通常であり、ことに第三大祐丸のように小型で休息場所のない漁船の場合には船尾の板に腰をかけていても各人がそれなりに魚影を探しているのが常である。

第三大祐丸の曳縄一本釣漁法の基本的仕掛は、長さ六ないし九メートル、直径一〇ないし一二センチメートルの竿竹を船体の左右の側面に船体と垂直の方向に張り出し(これを「張り竹」という。)、それぞれの先端や中ほど三箇所にそれぞれ張り縄を結び、他方、船尾(艫)左右から後記のような仕掛をつけた長さの異なる道糸をそれぞれ四本出して、道糸をそれぞれ各張り縄の先端に繋いで張り、また、船尾からも四本の道糸を出し、以上の合計一二本の道糸にはそれぞれ先端に疑似針をつけ、その手前に、疑似餌の役割のほか、疑似針の深度を調節したり、かかった魚を浮かせたりする機能をもついわゆる飛行機等も取り付けて、全体で約二〇ないし約五〇メートル程度の長さの仕掛にして曳行するものであり、これらとは別に、マグロ、カジキ等を獲ろうとするときにはマストからとくに長いカジキ用の仕掛を出してこれを曳きながら航行するものである。同船に乗船した漁夫は、港を出ると、直ちに張り竹を出して固定し、道糸につけた釣仕掛を海に入れ、船の航行に伴ってこれを曳いていくことになる。魚がかかるまでの間、漁夫は、主として船尾に待機しつつ、曳行している仕掛に魚がかかるのを見張るなどしている。魚群に入った場合には、船長が操船して、魚の群れと同じ方向に向かって船を航行させながら、漁夫が前記の道糸を手で手繰り寄せて、かかっているカツオ等の魚を船上に引き上げ、その尾を手でつかんで船縁に置いてある棒で魚の急所を一撃するなどして撲殺し、樽に入れる作業を行う(漁獲したカツオ等は、一旦樽に入れて血抜きをしてから、その後、船底の魚槽に納める。)。魚群に当たって連続的に魚がかかる場合には、船尾の前記四本の道糸の仕掛を中心として迅速に漁を行うことになり、それらの道糸の長さを三メートル程度にまで短く調節した上で曳き、漁夫は船尾に立って魚を次々と引き上げる。大型のマグロのように船上に引き上げられない場合には、銛で殺してロープで縛って曳航して帰港する。

こうした魚を釣り上げる作業は、一気に立て続けに魚がかかるときは短時間となるが、断続的に釣れ続くときもあり、そのような場合には、二、三時間続くことも少なくなく、長くなると五時間にも及ぶことがある。短時間の連続作業の場合はもとより、長時間に及ぶ断続的作業の場合にも、漁夫の肉体的疲労はかなりのものであるが、逆に魚群を見つけられない場合にも魚群の探索と焦燥とで精神的疲労感が強い。

第三大祐丸の場合、船長である小宮山英春が漁夫二人を乗船させて出漁するのが原則で、船長は、魚の群れと同じ方向に向かって船を航行させる操船を担当しているため、かかったカツオ等の魚を船上に引き上げる前記の作業は同船している漁夫の役割である。小宮山英春は、クロマグロ等大型の魚がかかって停泊してもよい場合や漁夫の作業が間に合わないような場合に、稀に操船台を降りて作業に加わるにすぎず、通常は、漁獲作業中も漁夫の作業を必要に応じて指揮するにすぎない。

第三大祐丸に乗船していた時期の沖山賢一の生活は、午前三時ころには起床し、船長より先に神湊港に着き、午前四時には同港を出港して出漁し、日の出には漁場に到着し、日没まで漁をするのが原則であり、マグロ漁の時期には、午後六時ころ帰港していたが、本格的カツオ漁をするようになってからは、帰港は午後八時ないし午後一〇時ころとなることも稀ではなく、ときに午後一二時ころになることもあり、帰港後、水揚げ、計量等の作業をし、これを終えた後帰宅するので、帰宅は、午後九時ないし午後一〇時過ぎころになるのが通常であった。したがって、同人が帰宅後食事をして就寝するのは、出漁日には、通常でも午後一一時を過ぎているような状況であった。そして、同人は、休漁の日にも第三大祐丸に棚を付けたり、茶飯箱や漁具等を作ったりしていたこともあった。

6  沖山賢一が乗船するようになった同年一月一六日以降の各日の天候と第三大祐丸の漁獲内容等は、別表(1)のとおりであり、同年二月一日からは大嶋栄二も乗船して、船長小宮山英春のもとに沖山賢一と大嶋栄二とで出漁するのが原則であったが、大嶋栄二は休みがちで、同年二月六日、同月一〇日、同月一三日、同月一五日、同月一六日、同月一七日、同月一九日、同月二一日、同月二三日、同月二四日、同年三月四日、同月一一日、同年四月二日、同月七日の各日はいずれも漁夫としては沖山賢一のみが乗船していた。したがって、このように大嶋栄二が休んだ日には、魚群に入った場合、船長である小宮山英春は原則として操船にあたっていたのであるから、漁労自体は専ら沖山賢一が担当していたものと推認される。

第三大祐丸は、三根漁業協同組合所属の総トン数五トン未満の小型船(以下「同等船」という。)の中では、天候が悪く、より大型の船しか出漁しない厳しい気象条件のときにも出漁することがままあり、出漁回数がとくに多く、また、総漁獲量も多かった。

7  およそ漁労は不規則で激しい労働を要する仕事であり、漁師は一漁期の漁業を終えると暫く休漁して身体を休めるのが通常であって、漁期内の疲労は一般的にいっても著しいものがある。

第三大祐丸の行っていた曳縄一本釣漁法による漁獲の対象は、カツオ、マグロ、マカジキ、シイラなどであって、一尾の体長は概ね五〇センチメートルを超え、重量は通常数キログラムのものから、カジキのように五〇キログラムを超すものやさらにはクロマグロ(ホンマグロ)のように百数十キログラムないしそれ以上に及ぶものもあった。数キログラムの魚が連続的に相当数かかった場合には、釣り上げる作業は質、量ともに極めて重労働であり、また、出漁後、魚が連続してかかれば、休息や食事の時間的余裕のないこともあり、逆に、一日中魚群を探索し続けるだけの徒労に終わることもある。そして、出漁自体が、当日の天候次第できまることになるばかりか、その日、その時の魚のかかり具合によって、仕事の質、量も異なるのであって、このような労働は、現代の各種肉体労働の中でも極めて不規則で負担の大きい重労働であるといえる。しかも、春漁の時期は、例年四月半ばころ以降比較的温暖になるまでは気温も低く、海上で風にさらされている乗船員の体感温度は一層低く、雨の降っているときはもとより、通常でも波の泡沫などで濡れた場合には、さらに冷たさは増し、厳しい労働環境の中で漁労を続けることになる。

8  同年三月九日午前、八丈島東方七、八マイル付近で操業中の第三大祐丸の曳縄に、クロマグロが同時に四、五本かかった。沖山賢一らは、このうちの一本、体長約二メートル、重量一七七キログラムのものを約一時間がかりで仕留めた(右所要時間は、当日使用していた仕掛のためもあって、同程度のものの漁獲に通常要する時間より短かった。)。そして、同日夕刻、再びクロマグロが三、四本かかり、沖山賢一らは、そのうち一本、体長同程度、重量一八八キログラムを約一時間かけて釣った。沖山賢一は、右二本目のクロマグロを船に引き寄せ、小宮山英春が銛で突こうとした際、逃げようとするクロマグロの力で利き手である右手に絡めたテグスを引張られて、右手の示指と環指に傷を負った。当日漁獲したクロマグロは、二本で金額にして計二一八万九三八七円であった。右の金額は、この年の第三大祐丸の稼ぎの約二割に当たる。

漁師の手指の負傷自体は、程度の差はあれ、日常茶飯のことであるが、沖山賢一のこのときの傷はかなり深く(原告本人の供述によると骨がみえていたというのである。)、同日午後七時四五分ころ、原告が同行して八丈町立八丈病院に行き、右手示指を三針縫うなどの治療を受けた。

しかして、沖山賢一は、小宮山英春から、乗っているだけでもいいからと、翌日も乗船してくれるように頼まれて断りきれず、結局、翌一〇日も、傷が治るまで休むように勧める原告の反対に対して、休みたいけれども休めないと言って、第三大祐丸に乗り組み、出漁した。同日もクロマグロがかかったが、漁獲はできなかった。同月一一日には、大嶋栄二が休み、沖山賢一は、小宮山英春と二人で第三大祐丸に乗船し、同日はマカジキ一本、重量四七キログラムの漁獲があった。初めには乗っているだけでもいいからと言われて乗船するようにはなったものの、実際には、各種の作業があり、その後、縫った傷口はふやけ、中々閉じることがなく、同月一一日、同月一三日と治療を受け、同月一六日には抜糸をしたけれども、同月一七日以降は第三大祐丸は本格的カツオ漁に入り、出漁すればカツオを中心としてマカジキ、シイラ、トンボ(ビンチョウマグロ)等かなりの漁獲があるようになった。このカツオ漁は、漁場が八丈島から遠いため、出港が早く、帰港は遅いので、漁労に従事する時間は、さらに長時間となった。この間、沖山賢一は、右手を使わざるを得ない状況にあり(原告は、沖山賢一が、就労中、包帯を外してゴム手袋をはめて魚を相手にした力仕事を繰り返していたと主張し、証人小宮山英春は、沖山賢一が手をビニール袋か何かで海水から防護していたと証言する。その詳細は不明であるが、いずれにせよ、利き手である右手をも使わざるを得ない状況が沖山賢一に続いていたことは明らかである。)、傷口がなかなか癒えず、休漁した同月二〇日に前記病院に赴いて受診した際にも、同病院医師によって傷口からの出血が確認されている。

三根漁業協同組合所属の漁船に何がしかの水揚げがあった日について、本件の直近一〇回分を遡って、第三大祐丸の漁獲量を同等船のそれと比較して一覧すると、その内容は別表(2)記載のとおりであり、第三大祐丸の漁獲総量は最も多く、また、出漁回数も多く、とくに同年四月五日からは五日間連続して操業し、同月九日には他の同等船一艘当たりの平均水揚量の約三倍の漁獲を上げた(なお、<証拠>によれば、第三大祐丸と同程度の規模〔五トン未満〕の漁船としては<証拠>記載の各船のほかにも、正丸、漁生丸があることが認められるので、それらの漁獲量についても同表中に掲記した。)。

9  同年四月一〇日には全国的に寒気が再来し、寒さが厳しくなり、海は時化た。

同一一日、沖山賢一は、午前三時ころ起床し、午前三時三〇分ころ自宅を出て八丈島湊港に向かった。八丈島測候所の気象観測によると、当日午前三時及び午前六時の気温は約一一度、全天雲に覆われた曇りで、陸上は午前六時二〇分から午前六時五〇分まで及び午前七時一〇分から午前九時五〇分まで、しゅう雨が記録されている。

沖山賢一は、小宮山英春より早く神湊港に着いた。おって到着した小宮山英春は、前日の時化の影響が残って波立つ海の様子を見た上で、第三大祐丸を出港させることとし、大嶋栄二を加えた三人で第三大祐丸に乗り組み、午前四時ころ、八丈島東北東約二〇海里(一海里は緯度一分にあたる海上の距離単位であり、1.852キロメートル。ヤード・ポンド法の場合にはマイルが用いられ、一海里は約1.15マイルで、一マイルは約1.6093キロメートルにあたる。右単位につき、マイルとの主張及び供述があるが、海図〔<証拠>〕上の記載に照らして海里の趣旨と解される。)にある拓南山漁場に向けてしゅう雨の同港を出港した。同港から出る際には、他船との接触を回避するなどの目的で沖山賢一が船首に立って見張り役をした。そして、出港後、沖山賢一と大嶋栄二が船のマストからに繋いだカジキ用の仕掛を海に流し、これを曳きながらの航行が開始された。そして、日の出とともに、沖山賢一らは、同船の両側に張り竹を出して固定する作業をし、カツオ用の曳縄をも曳きながら進み、午前六時ないし午前六時三〇分ころ、拓南山漁場に到着し、そこを曳航したが、同漁場では魚群の発見に至らず、そのため、第三大祐丸は漁場を移動し、八丈島の北東約二七海里のカンテツ山付近から新黒瀬と中黒瀬の中間の八丈島北北東約二八海里の地点に向かって航行しながら、魚群を探索した。この間、沖山賢一は、第三大祐丸が右カンテツ山に至った辺りから約二〇ないし三〇分間、自ら船首(舳先)にあるいわゆる突き台に立って魚群を探索する業務に就いた。

同人が突き台に立って魚群探索という業務に就いたのは、この日が初めてであった。突き台は、波のしぶきがかかり難く視界が広いため、魚群探索に適した位置ではあるが、船のピッチング、ローリングにより上下、左右の動揺がとくに激しい場所であり、とりわけ、第三大祐丸の場合には、より大型の船には設備されているような高い手摺はなく、そこに立つ乗員が身体を支えることのできる支えのない船型であって、船首にロープが一本付けてあるだけであった(証人田中史則や原告訴訟代理人らが昭和六二年七月一七日に第三大祐丸に乗船して、小宮山英春が凪であると表現する海上を本件と同様の航路で航行してみた際に、この場所に立って魚群探索に当たってみた状況について、証人田中史則は、短時間でもかなりの恐怖感を伴うと自らの経験を証言する。沖山賢一がかつて経験のないこのような方法による魚群探索の仕事を行った理由は確定的には明らかでないが、手指の負傷から魚の取り込み等について思うように作業ができなかった状況と責任感が強かったという証人小宮山英春及び原告の供述に照らすと、第三大祐丸の漁獲をあげるために少しでも役に立とうとするつもりで行ったものと考えられる。)。

その後、沖山賢一は、魚群探索を小宮山英春と交替して船尾に戻り、一旦、大嶋栄二と並ぶような形で操舵室入り口の台に腰をかけていたところ、午前一〇時三〇分ころに至って、新黒瀬と中黒瀬の中間の八丈島北北東約二八海里の地点において、小宮山英春が魚群を発見して船尾の両名に声をかけ、同時に、大嶋栄二が船尾にかけてあった仕掛を海に投入して所定の漁獲作業を開始した。沖山賢一は、これに続いて立ち上がった。沖山賢一は、操船していた小宮山英春が振り返って見た際マストにつかまって立っており、次に小宮山英春が振り返ったときには既にその場で船尾に向かってうつ伏せに倒れていた。

操船台からこれを見た小宮山英春は、沖山賢一に駆け寄り、倒れている同人を右舷後部に運ぶと、全速で神湊港に船を向け、直ちに同港の前記漁業協同組合にある八丈島無線海岸局に無線で連絡をとった。第三大祐丸の沖山賢一が寝かされた場所には、当時体を横たえるための台もなく、同人は、その場に寝かされたまま、波のしぶきのかかる外洋上を一時間以上揺られて、午前一一時四五分ころようやく帰港した。第三大祐丸上から神湊港に入港する約三〇分前に小宮山英春が前記の無線で連絡したところによると、沖山賢一は、一度目を開けたが、その後は閉じており、意識のない状態にあった。沖山賢一は、同港に待機していた救急車で同日午後零時一〇分ころ町立八丈病院に収容された。同病院に収容された際の血圧は、収縮期血圧一九二、拡張期血圧八二であった。そして、同病院で治療を受けたものの、二日後の同月一三日午後三時四七分ころ、同病院で高血圧性脳出血により死亡した。

(<証拠>)

二右事実認定に関して、原被告の主張する点について付言する。

1  原告は、沖山賢一はにわか漁師であったから漁労による負荷が大きかったと主張し、被告は、同人は相当の経験を積んだ漁師であったから漁労には慣れており、それによる負荷はさほどのものではなかったと主張する。沖山賢一をにわか漁師と呼ぶのが妥当かどうかともかくとして、同人の漁労経験の程度は、前記認定のとおりである。証人小宮山英春によると、沖山賢一は、器用で仕事自体は手早くこなしていたけれども、曳縄一本釣の漁労経験は浅かった、そのころは、同人の魚を取り込む作業自体はそれなりに速かったが、魚を釣り上げてしめる際に手元の一尾のみに神経を集中させて緊張して作業をしており、作業をしながら他の仕掛のどれに次の魚がかかっているかというような目配りができなかったという点に現れていたと証言している。沖山賢一は、本来の職業を有し、副収入を得るために季節的に二、三年乗船したことがあるというだけであって、若年のころに漁船に乗ったことがあるというもののもとより本業ではなく、長年漁船に乗り組んで漁労を経験し、海上での労働に特別に慣れきっている専業の漁師とはその経験の程度がまったく異なることは明らかである。ことに、昭和五七年に乗船した第三大祐丸は、その前に乗船したことのある友丸と比較しても小型の、漁船としては最も労働環境の厳しい船であったのであり、かかる船での労働に同人が慣れていたとは到底いうことはできない。

2  被告は、第三大祐丸が友丸に比して小型の船だったからといって、波浪による揺れの程度は船の形状にもよることで、トン数が少ないからといって一概に揺れが激しいとはいえないはずだと主張する。なるほど、一般論としては、波浪による影響の程度が船の大きさのみならず、船形等によっても異なり、波浪による揺れを防止することに主眼を置いた特殊な形状の船が存在することは公知の事実であるが、ここで比較の対象とするのは一般的な形状の漁船同士であるから、右のような特殊な形状の船との比較は問題外であり、漁船の形状は多少の違いはあっても概ね同様であることもまた、公知の事実というべく、したがって、船の揺れの程度について、船の大きさが極めて大きな要素となることは見易い道理である。第三大祐丸が友丸と比較してもかなり小型の船であったことは、前記認定のとおりであり、したがって、波浪による影響を受け易かったことは当然のこととして考えられる。<証拠>によれば、第三大祐丸に四年間乗船しており、それ以前にも漁労の従事経験のあった大嶋栄二ですら、季節当初の約一週間は船酔いがひどく苦しむというのであって、波浪のある方が漁獲の期待できる曳縄一本釣漁法によるマグロ、カツオ等の漁を外洋で操業していた第三大祐丸の揺れがとりわけ甚だしかったことは容易に推認し得るところである。

3  原告は、カツオ漁の労働時間は一九ないし二〇時間に上り、連続操業される重労働であって休養時間が著しく不足して疲労が極度に高まっていたと主張し、被告は、その労働時間は一四時間程度であり、連続操業といっても、回遊中の魚に出会わなければ、漁獲作業をするわけではなく、魚群に当たって漁獲作業をする場合でも、作業自体は約二〇ないし三〇分程度で、一、二時間にも及ぶことは稀であって、魚群が去れば、また船を航行させるという繰り返しで、魚群に当たるまでの間は休憩又は待機時間となるから、原告が主張するように長時間連続して重労働に従事したと評価すべきものではないと主張する。

まず、出港から水揚げ等の作業の終了までの就労時間についてみると、本格的なカツオ魚に入ってからは通常午前四時から午後九時ないし午後一〇時ころ、遅いと午前零時を過ぎることもあったのであるから、一七、八時間が通常(船に乗っての航行中の時間でも一六、七時間)で、ときに二〇時間に及んだことが認められる。そして、この間の沖山賢一の行った労働の内容は前記認定のとおりであって、魚群に入って漁獲作業をしているときは極めて身体的負荷の高い重労働をし、魚群に出会わないときも常時揺れる船上での監視態勢にあり、板の上に腰を掛けているといっても、船のピッチング、ローリングにより腰の浮くような状態が続いていたのであり、身体的、精神的に休養をとっていると評価し得るような状態となることはなかったものといえる。

次に、魚がかかった際の漁獲作業をしていた時間について、別表(1)に基づいて検討してみると、次のとおり、被告主張のような短時間のものではなかったものと考えられる。

釣糸を手繰り寄せて、かかっている一尾の魚を船上に上げ、これを撲殺して樽に入れる作業に要する時間には、魚のかかり具合はもとより、天候や風波の影響があるほか、個人差もあるが、沖山賢一の場合は、連続して当たりのある場合には概ね一尾一分ないし一分半程度の速度で釣り上げることができたであろうと推認することができる。すなわち、昭和四一年以来前記漁業協同組合に勤務して漁業に関わってはいるものの現場の作業に慣れていない証人田中史則(前記漁業協同組合参事)は、同人の場合は、約一キログラムのカツオ一匹について四分くらいはかかる、その程度の速度で作業をしていると漁師からは遅くて邪魔になると言われる、風や波がさほどなく好条件の場合一般の漁夫ならば一分ないし一分半くらいで一尾上げるだろう、と証言しており、また、一応調理師という職業を有するものの、マグロ、カツオ漁のみならず年間を通じて漁船に乗って本件当時まで約七年間漁夫の仕事をしていた大嶋栄二(第三大祐丸には本件まで四年間乗船していた。)の場合は、一尾二、三キログラム程度のカツオについては二〇ないし三〇分で二〇ないし四〇尾くらい上げると述べており、一尾当たり一分ないしそれ以上の速度で作業をしているというのであり(<証拠>)、証人小宮山英春によると、沖山賢一は、曳縄一本釣の漁労経験は浅く、作業をしながら他の仕掛のどれに次の魚がかかっているかというような目配りに欠けていたが、もともと器用で仕事自体は手早く、同人の魚を取り込む作業自体はそれなりに速かったというのであり、これらの者の各経験供述に照らすと、沖山賢一の場合も、大嶋栄二の場合とさして変わらぬ速度で釣り上げることができたであろうと推認するのが相当であり、その速度は、連続して魚がかかる場合には、概ね一尾一分かあるいは一分半程度であったと考えられる(なお、中学校卒業以来専業の漁師をし、その技術の優秀さに争いのない証人小宮山英春は、同人の場合は、その証言の日に電車の中で腕時計を見ながら考えてみたところ、連続して魚がかかっているときに、道糸を三メートルくらいに短くしてある場合には、一分間で五本くらい上げる自信があると証言するが、日常から離れた環境の中で考えてみたところその程度の自信があるという証言の趣旨からして、直ちにそのとおりであると断定することには躊躇せざるを得ず、また、仮にそのとおりであるとしても、同人の経験の程度とその仮定の条件に照らすと、沖山賢一についての一般的な基準とすることは相当でない。)。しかして一方、クロマグロ、マカジキ等本数の特定されているもののほか、別表(1)「漁獲量」欄記載のカツオ等については、大きさと重量が特定されているので、これに基づき、前記一2のとおりの三根漁業協同組合における魚の大きさの取扱い基準に従って、カツオ等の水揚げを尾数に換算してみると、水揚げのあった日の魚の数は、同表「尾数(推定)」欄記載のように推定することができ、これを取り出して一覧すると、別表(4)の「推定尾数」欄記載のようになる(具体的漁獲内容の概要は同表「漁獲内容」欄記載のとおり)。そうすると、前記のとおり、かかったカツオ等の魚を取り上げる役割を受け持つのは、乗船者が小宮山英春と沖山賢一の二人であるときは沖山賢一であり、これに大嶋栄二が加わって三人であるときは、沖山賢一と大嶋栄二の二人であった(漁夫数は同表「人数」欄に記載)から、第三大祐丸に水揚げのあった出漁日における沖山賢一の前記漁獲作業(魚を船上に上げ、撲殺する作業)自体に要した時間は、連続して魚がかかった最も短時間の場合を想定しても、「人数1人」の場合には、概ね別表(4)「推定尾数」欄記載の数値に一ないし1.5を乗じた程度、「人数2人」の場合には、概ね別表(4)「推定尾数」欄記載の数値の二分の一に一ないし1.5を乗じた程度の時間(分)程度であったものと解され、したがって、三月二二日は八〇ないし一二〇分、同月二三日は三五ないし五三分、同月二七日は六八ないし一〇一分、同月三〇日は一五一ない二二七分、四月一日は五八ないし八六分、同月二日は一二三ないし一八五分、同月五日は一三ないし二〇分、同月六日は一六八ないし二五二分、同月七日は二〇八ないし三一二分、同月九日は九二ないし一三七分程度であったものと推定されることになる(なお、前記受傷後は同人の作業速度が多少遅くなっていたのではないかとも考えられないではないが、沖山賢一が小宮山英春のもとで第三大祐丸に乗船したのはこの年が初めてなのであって、しかも、第三大祐丸が本格的にカツオ漁に入ったのは同年三月一七日以降なのであるから、沖山賢一のカツオ等の漁獲の作業が手速かったという小宮山英春の供述に関しては、同日以降の経験に基づくものの比重が高いのではないかとも解されるし、また、仮に傷の負担により作業が遅くなっていたとしても、後記5のとおり、同船していた大嶋栄二が右受傷に気づかなかったという程度の遅れであると解されるから、作業に要した最短時間は右の程度に推定することを妨げない。そして、仮に傷の負担により作業が遅くなっていたとすれば、作業に要した最短時間はさらにこれより長かったことになる。)。右は、あくまで魚が連続してかかった場合を想定しての計算であるから、魚のかかり方が断続的な場合には、さらに長時間にわたって同様の作業が続いたことになるところ、一方、前者の場合にあっては、極度に密度の濃い重労働が一、二時間以上、ときには四月七日のように四、五時間にわたって行われたことになり、他方、後者の場合にあっては、密度は薄くなるとしても時間的にはその何倍もの長さの労働になったものと推認されることになる。

4  また、沖山賢一の休養の程度に関して、被告は、沖山賢一の死亡前の稼働状況が一か月に約一〇日の休日があり、しかも、出漁した日でも船内における待機又は休憩の時間が相当あることから、休養は十分とれたはずであると主張する。しかし、まず、船上での待機状態のときが休養の時間と解し得ないことは前記のとおりである。また、なるほど、沖山賢一が第三大祐丸に乗船して出漁した日数についてみると、昭和五七年二月は、二八日間に出漁日数二〇日、休漁日数八日であり、同年三月は、三一日間に出漁日数二〇日、休漁日数一一日であり、同年四月は、発症当日まで一一日間のうち、出漁日数八日、休漁日数三日であるから、これらを単に三〇日間当たりの休日の日数として換算(休漁日数を当該期間の日数で除し、これに三〇を乗ずる。)すると、同年二月8.6日間、同年三月は10.6日間、同年四月は8.2日間となるが、出漁日における就労時間は、前記のとおり、通常でも一七、八時間程度であり、ときに二〇時間に及んだのであり、間に休日が入らないで連続して出漁した場合には、ほんの三、四時間程度の睡眠で再び早朝から厳しい労務に就いていたのであって(同年三月以降をみても、三月一日から四日間、三月八日から五日間、三月一四日から二日間、三月二一日から三日間、四月一日から二日間、四月五日から五日間は連日の出漁である。)、右の程度の休日数によって休養が十分とれていたということは相当でなく、沖山賢一の睡眠、休養時間が著しく少なくなっていたことは明白な事実である。

なお、被告は、沖山賢一に過重負荷はなかった旨主張し、原告の事情聴取書(<証拠>)中の「船の仕事について夫から特別に大変であったとか聞いたことはありません。」との記載をもその根拠にしているようであるが、それは、原告本人尋問の結果に照らすと、沖山賢一が、以上のような重労働にもかかわらず、苦労を口に出すことがなかったことを意味するにすぎないものと解される。

5  原告は、本件発症当日の海況について、時化であったと主張し、これに対し、被告は、漁場に着いたころには凪いでいたと主張する。この点につき、大嶋栄二(<証拠>)も証人小宮山英春も「べた凪」だったと述べているところ、「時化」とか「凪」とかいう表現は、吾人一般には、前者が嵐のような海面を、後者が穏やかな海面を典型的なものとして想起させる語感をもつものといえようが、問題は同人らの表現の示す語感ではなく、海況の実際のいかん、それが極く小型の漁船である第三大祐丸にいかほどの揺れをもたらす程度のものであったか、ひいては、沖山賢一の労働による負荷の程度がどれほどであったかという点にある。これを証拠によってみるに、証人田中史則の証言によると、漁業者による「凪」という表現は、漁師にとって楽に操業ができる海の状態という趣旨であり、その判断は素人の受けとめ方とはかなり異なっていることが窺われる。そして、<証拠>によると、天気予報で表現される風力と波浪の関係及び風力と平均風速とのおおよその関係は別表(3)のとおりであるが、証人小宮山英春の証言によると、風速八メートル(風力四)程度までは凪であり、風力五(風速八ないし一一メートル)程度になると時化の始まりだというのである。本件発症当日の八丈島測候所の所在する陸上で測定された風速は、日平均風速が毎秒4.5メートル、日最大風速が毎秒10.3メートル、瞬間最大風速が毎秒18.9メートルであって、別表(1)によって、右各数値を比較してみる限りでは出漁日中の平均的な値であるが、ときにかなり強い風が吹いていたことが窺われ、当日も決して平面的な穏やかな海ではなかったものと考えられる。そして、それ以前の出漁日の船の揺れの程度についてみるに、証人田中史則や原告訴訟代理人らが昭和六二年七月一七日第三大祐丸に乗船して、本件と同様の航路を航行してみた際の状況の写真である<証拠>、証人田中史則、同小宮山英春の各証言によれば、小宮山英春が凪だという状況下において、船は左右に三〇度近くも傾くことがあり、波のしぶきがかかって、下着までも濡れる状態であり、また、風のためもあって体感温度がかなり低く感ぜられたことが認められ、右事実に別表(1)記載の各日の風速を照らしてみると、本件発症日までの出漁の際にも船の揺れの程度は「凪」とされる日にあっても右と同断であったものと認められる。しかも、証人小宮山英春の証言によると、風力六、七(風速一一ないし一七メートル)といった程度になるとカツオ漁は仕掛が風にあおられて漁にならないけれども、マグロを狙おうと思う場合であれば、天気予報で風力七(風速一四ないし一七メートル)という発表があるような大時化であっても、自分で海の状況を見て、漁労可能と判断する限り、他の同等船の出漁のいかんにかかわらず、漁ができない危険な状況になれば帰港するという前提で取り敢えず出漁してみる、時化のときは船の揺れや波のため危険があるので、なるべく船の中央で作業するようにしているというのである。第三大祐丸が同等船の中で最も出漁頻度が高い部類に属していたのは、こうした小宮山英春の考え方に基づくものと解され、同船に乗船する漁夫の労働環境がとりわけ厳しかったことが窺われる。別表(1)によって、沖山賢一が乗船して第三大祐丸が出漁した日のうち、日平均風速が毎秒一〇メートルに近かった日又は日最大風速が毎秒一〇数メートルに及んだ日を摘記すると、一月一六日、同月二一日、二月一日、同月三日、同月四日、同月七日、同月一〇日、同月一七日、同月二四日、三月一日、同月二日、同月六日、同月一五日、同月二一日、同月三一日、四月七日、同月八日、同月九日となるが、これらの日の船の揺れは前記の程度をさらに超えるものがあったものと推認される。

6  さらに、被告は、昭和五七年三月九日の沖山賢一の負傷は、業務に支障のない程度のものにすぎなかったと主張し、<証拠>(同船した大嶋栄二の事情聴取書)には、沖山賢一の負傷については余り気がつかなかった、同人が包帯をしていたかどうかも覚えていない、同人は普段どおり漁をしていたと述べている被告の主張に沿うかのような記載がある。しかしながら、同人の傷がかなり深く、また、中々癒えなかったことは前記認定のとおりであり、同号証の右記載はその認定を覆すものとはいえない。

利き手の示指、環指の右のような傷が漁労に支障を及ぼさなかったとは到底考えられないところであるが、大嶋栄二が右のような供述をしたことは、同人が沖山賢一と並んで行なっていた前記作業内容に照らすと、同人からみて沖山賢一の作業に特段の遅滞がなかったためであると解され、むしろ、沖山賢一が右負傷にもかかわらず、普段と変わらぬ働き振りを示そうとしていたことを現しているものと考えられる。

7  本件直近の第三大祐丸の漁獲量について、原告は、同船のそれが他の同等船のそれと比較して特段に多かったと主張し、被告はこれが他船に比してむしろ少なかったと主張する。

別表(2)に基づいて、この点を考えてみる。

前記漁業協同組合においては、水揚げのあった日には漁獲量を水揚日計表に記録しているが、出漁しても水揚げがなかった日にはその記載をしていない。したがって、右水揚日計表の記載自体からは、記載のない船が出漁しなかったのか、それとも、出漁したのに水揚げがなかったのかは明らかにならない。そして、他にも、他船の出漁の有無を明記した記録はない。これに対して、第三大祐丸については、出漁日が小宮山英春の記録によって別途特定されているため、出漁したのに水揚げがなかった日を特定することができる。

このような資料の状況を前提としながら、原告は、出漁したか休漁したか不明の日も含めて一律に総日数で除して各船毎の平均値を算出して第三大祐丸と他の船とを比較し、また、一日の漁獲量合計を同等船の合計数で一律に除して当該日の一艘当たりの漁獲量平均値を算出し、これと当日の第三大祐丸の漁獲量を比較し、その結果、同等船に比して第三大祐丸の漁獲量が特段に多かったと考えている。これに対し、被告は、期間内の漁獲量を各船毎に合計し、それを各船に水揚げのあった日数で除すことによって、水揚げのあった日の一日当たりの各船の平均漁獲量を算出して、それと第三大祐丸の出漁日一日当たりの漁獲量を対比することによって第三大祐丸の水揚げは決して多くなかったと考えているわけである。

まず、原告の計算方法について考えると、全船について総水揚げ量を総日数で除した数値同士で直接比較することは、他船が第三大祐丸の出漁した日にはすべて出漁したという前提をとらない限り合理性がない。証人小宮山英春の証言中には、あたかも昭和五七年四月五日には第三大祐丸、漁生丸、正丸以外の同等船も全船出漁したのにすべて水揚げが零であったかのごとき趣旨にも解し得ないではない供述部分があり、また、証人田中史則は、第三大祐丸だけが出漁して、他の同等船が出漁しなかったということは考え難いとして同月五日や同月七日にも同等船の大半は出漁していたであろうと推測するとも供述している。これらの供述は原告の計算方法に副うものであるが、証人田中史則自身も同船は漁獲の意欲、努力が旺盛だったと述べているところであり、証人小宮山英春も第三大祐丸は相当の時化でも大型の船と肩を並べて操業していた旨をそれぞれ証言しているところであって、別表(1)記載の第三大祐丸の出漁日と天候、さらに、これらの日の前記水揚日計表における前記漁業協同組合所属の漁船の水揚げの内容、程度に照らすと、後者の供述部分が措信し得るものというべきであり、前記認定のとおり、同船は同等船が出漁しなくとも他のより大型の船とともに悪天候の中を出漁することもあったと認められるのであるから、前者の供述部分を直ちに採用することはできない。かくて、第三大祐丸の出漁頻度が他の同等船より一般に高かったことに照らすと、原告の計算方法はそのまま採用することはできない。

また、被告の示すように、第三大祐丸の出漁日一日当たりの水揚げ量と他の船の水揚げがあった日だけの漁獲量平均値とを比較することは、異なる基準値をもって相互比較をしていることになり、他の同等船が水揚げのなかった日にはすべて休漁していたという前提、換言すれば、他の同等船すべてについて出漁した以上はおよそ水揚げのないことはなかったという前提にたたなければ不合理であり、そのような前提をとるべき根拠はないから、比較方法として合理性を欠くことは明らかである。

しかしながら、同表によると、この期間内の総水揚げ量の点でいえば、第三大祐丸のそれは一一艘中最高で、平均値を四割近く上回っており、出漁回数も他に同日数出漁した船がないかどうかはともかくとして最も多い部類に属することは明らかである。そして、この間、他の同等船がすべて出漁したとすれば、一回の出漁当たりの水揚げ量(すなわち、右総量をそれぞれ総日数で除した数値)は右と同様、当然第一位ということになるし、また、逆に、他の船が水揚げがなかった日にはすべて休漁していたのだとすれば、この間の第三大祐丸の出漁回数は他に抜きん出て一番であったことになる。右のいずれであるかは特定し得ないものの、他の同等船との比較の意味は、本件直近の時期に沖山賢一が負った漁労による負荷の程度が同時期の他の同等船の乗組員と比較して過重であったかどうかという点にあるから、この間の漁獲総量が多かったにせよ、あるいは、出漁頻度の高さが著しかったにせよ、沖山賢一に加わった負荷が他船の乗組員に比較してもかなり大きかったことは明らかである。

三高血圧性脳出血の成因については未だ確立した医学的見解が樹立されているわけではない(<証拠>)が、<証拠>(JR東京総合病院脳神経外科滝澤利明医師の意見)によると、動脈硬化、糖尿病、遺伝的素因等で動脈壁の一部に脆弱な部分ができ、これに血圧が加わって破裂寸前の微小な動脈瘤ができるか、動脈壁の壊死が生じ、動脈破裂の準備状態になるためと解され、この部分が血圧によって破綻して出血を惹起するのがその発生の機序とされる。右動脈瘤又は動脈壁の破綻を惹起する血圧は、正常血圧でもあり得るが、血圧が高くなれば当然に発症のリスクが高まる。したがって、高血圧、動脈硬化が、脳出血のリスクファクターといえることが認められる。

そして、その発症と労働負荷との関係については、脳血管疾患及び虚血性心疾患等に関する専門家会議の報告(昭和六二年九月八日付け「過重負荷による脳血管疾患及び虚血性心疾患の取扱いに関する報告書」)に基づいて中枢神経及び循環器系疾患等の業務上外認定基準について改定された認定基準である昭和六二年一〇月二六日付け基発第六二〇号通達は、発症前に日常業務に比較して特に過重な業務に就労し、これによる明らかな過重負荷から症状の出現までの時間的経過が医学上妥当なものである場合には、業務に起因することの明らかな脳血管疾患として労働基準法施行規則別表第一の二第九号に該当するものと扱うべきことを定めているところ、その基礎となった前記報告書は、「脳血管疾患の発症経過をみると、その発症の基礎となる動脈硬化等による血管病変又は動脈瘤等の基礎的病態が加齢や一般生活等における諸種の要因によって、増悪し発症に至るものがほとんどであるが、この自然経過中に著しく右基礎的病態を増悪させる急激な血圧変動や血管収縮を引き起こす負荷、すなわち『過重負荷』が加わると、その自然経過を超えて急激に発症することがあるので、業務との関連については、この過重負荷により発症した脳血管疾患であって、その過重負荷が業務に起因したものであるか否かを判断することが医学上妥当であり、換言すれば、業務上の諸種の要因によって発症したものと認めるのが妥当な要件は、業務による明らかな過重負荷が発症前に認められるか否かである」という基本的な考え方を示している(<証拠>)。

四右にそって検討してみると、まず、沖山賢一の発症の基礎となった病態の有無、程度については、なるほど同人には、脳出血のリスクファクターといえる高血圧傾向と動脈硬化の存在が推定される(<証拠>)。しかし、前記認定のとおり、前記検診における眼底所見でも動脈硬化度はO度、高血圧度I度とされており、血圧測定値についても収縮期血圧一五四、拡張期血圧一〇八との検査結果であって、この検査値は、後者が高いと評価される程度のものにすぎず、高血圧といってもその度合いはさして高くないものと解される(<証拠>)。

他方、沖山賢一の業務及びそれによってもたらされた身体的、精神的負荷の内容、性質、程度、経過については、以下のとおり、極めて過重なものがあったと判断される。

すなわち、

1 まず、沖山賢一には、第三大祐丸に乗船して漁労に従事するようになった昭和五七年一月一六日の時点で急激で著しい労働環境の変化があったものと考えられる。

沖山賢一が従事した八丈島付近の外洋で行われる小型船による曳縄一本釣漁業での漁労は、大工仕事と比較すると、同じく外気にさらされて行う業務であるといっても、晴雨にかかわらず行われるものであるのみならず、波浪のある外洋上での仕事であって、就労の場所的環境はまったく異なり、前記認定のとおりその内容も厳しく、かつ、長時間に及ぶもので、身体及び精神に対する負荷の程度は著しいものであると解されるから、陸上での大工仕事から海上での漁労への仕事の変更は、同人にとって著しい労働環境の変化であったと考えられる。同人の漁労経験の程度は、前記認定のとおり、季節的に二、三年乗船したことがあるというだけのもので、長年漁船に乗り組んで漁労を経験し、海上での労働に特別に慣れきっている専業の漁師とはまったく異なる体のものであって、かかる労働環境の急激で著しい変化は、沖山賢一の労働負荷を高める要因となったものと考えられる。

2 そして、それ以後従事した労働の内容についてみるに、およそ一般的に第三大祐丸のような極めて小型の漁船での前記のような労務が身体的、精神的負荷の大きい厳しい性質のものであることに加えて、とくに第三大祐丸の場合は、船長の漁獲意欲が旺盛で出漁頻度も高かったことから、これに乗り組む漁夫の労働による負荷は大きく、沖山賢一の労務も、主としてカツオを狙って出漁した場合には、一日の労働時間が前記認定のように極めて長時間にわたるのみならず、間に休日が入らないで連日出漁したときには、ほんの三、四時間程度の睡眠で続けて早朝から厳しい労務に就いていたのであり、しかも、現に漁獲量もかなりあったにもかかわらず、同僚の漁夫は休みがちで、同僚が休んだ場合には、原則として同人一人で、漁夫二人で漁労にあたった場合にひけをとらない漁獲量を上げるだけの労務に従事せざるを得ないことも多かった。また、クロマグロを主たる漁獲対象として狙って出漁した場合には、その一本当たりの単価が著しく高額でこれを漁獲できるかどうかによって船主の年間の収入の多寡に大きな影響があるところ、魚のかかる頻度自体が低く、魚影を追って航行する探索の時間が長くなり、また、対象魚がかかっても大型魚のため漁獲作業には激しい身体的労作を要し、これを漁獲できないことも多いのであって、強度の身体的負荷が断続的に強いられるのみならず、断続的緊張状態による強度の精神的負荷も加わっていたものと解される。そして、沖山賢一が同船に乗船するようになって約一か月後には、同僚の漁夫が休む頻度もとくに高くなり、同人の受けた負荷は一層強くなっていたものといえる。

このようにして、それ自体としてかなり重い負荷を帯びた業務が二か月間近くも続いていたところ、沖山賢一は、同年三月九日には手指に受傷し、それにもかかわらず、翌日からすぐに漁労に従事し、同僚が気づかないくらいに従前同様の働きをしていたのであるから、その後の労働の身体的、精神的負荷が以前に増して大きいものであったことは明白である。

3 しかも、別表(4)に基づく前記検討結果によって明らかなように、身体的労働負荷は、本格的カツオ漁に入った同年三月一七日以来、累増して重いものとなり、本件直近一〇回の出漁時の総漁獲量は同等船中最も多く、とくに本件発症の六日前から五日間連続して出漁し、五日前には、前記のような魚の取り込み作業だけでも、最低三、四時間程度、四日前には最低でも四、五時間程度、二日前には最低でも二時間程度の激しい労働をしていたことが認められるのであるから、労働の負荷がさらに一層大きくなったことは明らかである。

4 そして、沖山賢一は、かような過重な労務の継続により疲労が蓄積した状態にあったところ、寒気が再来して寒さが厳しくなったその翌日である本件発症当日、午前三時ころ冷気の中を起き出し、神湊港からしゅう雨の中を第三大祐丸で出漁し、前日の時化の影響の残る外洋へ乗り出し、自ら、初めての経験である同船の舳先に乗っての魚群探索という、一本のロープを頼りに身体のバランスを保ちながら、海面付近を肉眼で凝視する、身体的、精神的緊張を強いられる業務に就き、身体及び精神に一層過度の負荷を受け、遂に魚群を発見できないまま一旦単なる監視態勢に入って間もなく船長から魚群発見を知らされて、漁獲作業を開始しようとして緊張を高めた際に、本件脳出血を発症したものであり、しかも、脳出血を発症しながらも何ら治療を受けるすべのない外洋上を全速で波を切って航行する船上の、他に適当な場所もないとはいえ、波しぶきのかかる船舷に横たわって、発症後一時間以上も揺られながら帰港し、結局、二日後に死亡するという経過を辿ったものである。

5 なお、平成元年四月一四日及び同月一五日の両日、循環器疾患の疫学を専門とする国立公衆衛生院疫学部成人病室長上畑鉄之丞は、漁夫の出漁中の血圧の変動要因について、現に魚を釣り上げる激し作業を実行しているときに専ら血圧の上昇をきたすものであるのか、それとも他にも血圧を上昇させる要因があるのかを調査するために、第三大祐丸に乗船して、同船の乗員(同月一四日は、船長小宮山英春、日ごろは運転手をしていて季節的に漁労につくことのある山田某〔三三、四歳〕、上畑鉄之丞を、同月一五日は、小宮山英春、田中史則、上畑鉄之丞をそれぞれ被検者とした。)の血圧の変動状況を自動連続血圧測定装置によって、航行中三〇分おきに測定した。その結果は、血圧上昇の大きな要因として特定のものを確定するには至らなかったが、漁獲作業中だけでなく、魚群探索の状態にあるときも血圧が上昇することがあり、魚群を待って待機している時間中も、精神的緊張は必ずしも緩んでおらず、魚群に出会わないまま、航行を続けていることが、かえって、漁獲作業中の緊張とは性質の異なる疲労感の残る負荷となることが窺われた(<証拠>)。

五以上のとおり、沖山賢一に認められる基礎的病態の程度は軽度である一方、本件業務及びそれによってもたらされた身体的、精神的負荷の内容、性質、程度、経過が極めて過重なものであったことからすると、沖山賢一の本件疾病は、高血圧傾向、動脈硬化という基礎的病態を背景として、昭和五七年一月一六日以来の厳しい労働環境の中にあって、累増する身体的、精神的負荷を受けて蓄積された疲労を高めつつ、発症数日前からのとくに著しい負荷を相対的に有力な原因として発症したものと判断するのが相当である。この点、東京労働基準局医員佐藤進も、昭和五七年九月一八日付け意見書(<証拠>)において、沖山賢一に、「病的素因ないし基礎的疾患」として「肥満、高血圧症、心電図異常所見(完全左脚ブロック、心筋虚血の疑い)」があったという前提に立ってすら(そこで病的素因ないし基礎的疾患とみなされた「肥満、高血圧症、心電図異常所見〔完全左脚ブロック、心筋虚血の疑い〕」のうち、前二者は高度なものではないことは前記のとおりであり、完全左脚ブロックが誤読であることは後記のとおりである。)、「就労のために、病的素因ないし基礎的疾患が自然的増悪を越えて、急激に増悪して脳出血を誘発した可能性を否定することは難しい」と判断しているところである。

そうすると、沖山賢一に対する本件業務による負荷と本件発症との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当である。

六被告は、沖山賢一には、心臓に虚血性の変化があったと主張し、本件処分においても「完全左脚ブロック」、「心筋虚血の疑い」という昭和五四年一一月一日の成人病集団検診における心電図所見上の記載が業務起因性を否定する根拠の一つとされている。たしかに、乙第七号証(前記検診票)には、「完全左脚ブロック」、「心筋虚血の疑い」との記載があるが、そもそも、右検診結果の心電図欄には「CompleteRBBB」と記載されており、右は「完全右脚ブロック」の意であって、これを「完全左脚ブロック」と読むのは誤読であって、「心筋虚血の疑い」という判定もまた、十分な根拠がないものと解される。けだし、医学上、「完全左脚ブロック」と「完全右脚ブロック」とは臨床的意味が異なり、「完全左脚ブロック」が、高血圧性心臓病や虚血性心臓病にしばしばみられるものであるのに対して、「完全右脚ブロック」は、ほとんど良性脚ブロックであって、九四パーセントは正常心であったという報告もある(<証拠>)。心電図所見に完全右脚ブロック、左の高電位、陰性のU波が認められていることは左室肥大があることを意味すると解される(証人上畑鉄之丞)けれども、これらは、心疾患に関するもので、本件発症との直接の因果関係を推認せしめる証拠は何もない。また、脚ブロックそのものは脳出血の原因とはならない(<証拠>)。

被告が本件について業務起因性を否定した根拠となった医師の各意見、判断(<証拠>〔東京労働基準局医員遠藤実の昭和五七年一一月四日付け意見書〕、<証拠>〔関東労災病院副院長[当時]大野恒男の昭和五八年一〇月四日付け鑑定書〕、<証拠>〔前記遠藤医員の平成元年九月一一日付け意見書〕、<証拠>〔前記大野医師の平成元年九月二九日付け意見書〕、<証拠>〔JR東京総合病院脳神経外科滝澤利明医師の意見書〕)は、いずれも、発症前の沖山賢一の漁労による負荷の程度に関し、前記認定、判断のような諸点について十分考慮していないことは、右各号証の記載から明らかであり、また、<証拠>は「完全左脚ブロック」という誤った心電図所見を重要な根拠としているものと解されるから、いずれも前記認定、判断を覆すに足りない。

すなわち、これを詳論すると、

1  東京労働基準局医員遠藤実は、昭和五七年一一月四日付け意見書で「日常血圧が高いことが指摘されており、基礎疾病が存在していたと考えられる。就業時に、自然増悪を来し、脳出血を来したものと考えられ、業務外と判断せざるを得ない。」と判断している(<証拠>)。しかし、同号証の記載自体からは、存在していたと考えられた基礎疾病が何であるかは必ずしも明らかではない。右判断に先立ち、同局医員佐藤進が、同年九月一八日付け意見書で、沖山賢一に、「病的素因ないし基礎的疾患」として「肥満、高血圧症、心電図異常所見(完全左脚ブロック、心筋虚血の疑い)」があったという前提に立つ判断を示していたこと(<証拠>)、本件証拠上、沖山賢一に他に特段の疾病も窺われないことに照らすと、遠藤医員のいう「基礎疾病」は、右佐藤医員のいう「病的素因ないし基礎的疾患」と同様のものを指しているものであろうと解される。しかし、右佐藤医員が「病的素因ないし基礎的疾患」とみなした「肥満、高血圧症、心電図異常所見(完全左脚ブロック、心筋虚血の疑い)」のうち、前二者は高度なものではなく、完全左脚ブロックが誤読であることは前記のとおりである。そして、右遠藤医員の判断において沖山賢一の負荷の程度について十分な考慮がめぐらされた形跡はない。

2  関東労災病院副院長(当時)大野恒男医師は、昭和五八年一〇月四日付け鑑定書(<証拠>)において、第一に、業務による影響に関しては、発症当日の当該時刻における気候、気象、業務に異変があったかどうかに限定した判断基準のもとに、第二に、心電図上左脚ブロックとされているのであるから、脳出血の危険はこの時期には既に存在していたという医学的判断に基づき、本件を業務外と判断している。しかし、前者は、一定期間内の過重負荷の累積の有無という視点からの検討を欠いている点で失当であり、後者の判断の重要な根拠となった左脚ブロックの存在がないことは前記のとおりである。

また、同医師は、沖山賢一の心電図所見が正しくは右脚ブロックであることが判明した後、次のような記載のある平成元年九月二九日付け意見書(<証拠>)を提出している。すなわち、「脚ブロックは、加齢又は動脈硬化が原因で生ずるもので、昭和五四年当時、肥満、高血圧が認められることからすると、ある程度の動脈硬化の傾向であると推定できる」、「喫煙、飲酒、食事等、相当の注意を怠っていれば、発病は極く自然な経過と考えられる。」というのである。

「喫煙、飲酒、食事等、相当の注意を怠っていれば」という趣旨が、これらについて特段の注意、制限をする必要があったとの前提でそれを怠ったという場合を指しているのか、それとも、過度の喫煙、飲酒や暴飲暴食の類の不摂生をしていた場合をいっているのかは、必ずしも明確でないが、まず、沖山賢一が、昭和五四年当時の検診結果に基づくなどして、喫煙、飲酒、食事等について特段の注意を払うように指示されたことを認めるに足りる証拠はなく、<証拠>によると、同人が一時喫煙をやめていたこともあり、喫煙を制限しようとしていたことも窺われるが、禁煙、節煙を試みることは極く一般的なことにすぎないから、この点のみから前記検診の結果に基づいて同人に特段の指示が与えられたものと推認することはできず、かえって、<証拠>によれば、右検診後、原告が結果を尋ねたのに対して、同人が大丈夫だと答えていたことが認められることからすると、喫煙、飲酒、食事について特段の注意、制限をする必要のある状態に同人があったとの前提事実は、これを認めることができないのであり、したがって、なすべき注意を怠ったという場合には当たらないものというべきである。他方、本件全証拠を総合しても、同人に過度の喫煙、飲酒や暴飲暴食の類の不摂生があったことは認められず、かえって、同人の生活状況が概して規則正しいものであったことは当事者間に争いのない事実であって、<証拠>(小宮山英春の聴取書)によると、同人の見る限り沖山賢一は殆ど煙草を吸うこともなかったというのであり、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によっても、同人の生活状況は極く普通の社会人、家庭人のそれであって、むしろ穏やかな生活振りであったことが窺われる。

そして、「ある程度の動脈硬化の傾向」というだけで、これを基礎として自然的経過によって脳出血を発症したと解することは根拠不十分である。

そうしてみると、同医師の意見をいずれの趣旨に理解してみても、沖山賢一について極く自然な日常的経過によって脳出血が発症したのではないかと疑うべき根拠は見いだし難い。

3  前記遠藤医員は、平成元年九月一一日付け意見書(<証拠>)で、前記集団検診結果中に、高血圧、肥満、心電図所見及び眼底所見に軽度の異常が認められるので、動脈硬化の存在が推定されるとして、「作業中自然に増悪を来し、発症したもの」との判断を示している。しかし、業務による負荷の程度を十分検討することなく、「軽度の異常」等に基づいて、自然的増悪によるものと断定することはできず、前記のような負荷の過重性に照らすと、同医師による再度の判断によっても本件業務が相対的に有力な原因となったとの前記判断を覆すことはできない。

4  JR東京総合病院脳神経外科滝澤利明医師も、意見書(<証拠>)で、本件の業務起因性を否定しているが、その意見の骨子は、「肥満、高血圧、動脈硬化、長年にわたる喫煙、飲酒の習慣」により既に「脳出血の準備段階にある」場合には、外的要因は発症の契機にすぎないという趣旨にすぎず、本件における沖山賢一について、本件業務による負荷のための甚大な影響なしに既に同医師のいうところの「脳出血の準備段階」にあったというべき根拠は同意見書においても何も示されていないし、そのように解すべき証拠は本件においては何もない。むしろ、同意見書によっても、肥満、高血圧、動脈硬化、長年にたる喫煙、飲酒の習慣などが脳出血を発症する原因であると同時に、寒さやストレスや過労などが発症の可能性を高めるというのであり、本件における沖山賢一の業務による負荷の著しさに鑑みれば、同号証による同医師の意見も前記判断を覆すものとはいえない。

七以上のとおりであるから、本件処分は取消を免れない。

(裁判官松本光一郎)

別表(1)ないし(4)<省略>

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